同窓生は今

今人生、男盛り ~26期(空)~

2020.12.31

「還暦を祝う 今を盛りの命ともがな」

  小野 賀三(26期 航空)#26ono.png

 令和2年10月10日、まだ紅葉も見ぬうちに、もう冬が来たと思えるほどに今朝は冷えた。ふと、人は60歳になったらいったい何をするのだろうと考える。「もの思う秋」を迎えたということだろうか。ついこの前まで、こんなことは、思いもしなかった。自衛官も定年で辞めてしまえば、もう「年寄り」の仲間入りぐらいに思っていたのに、会社に勤め始め、何か未だそんなでもないように思ううち、私も、とうとうその歳を迎えた。
 60歳を人生の区切りに皆、「還暦」を祝うものだと知ってはいたものの、自分のこととは思いもせぬまま、ある日、離れて暮らす息子から荷物が届いた。赤いチャンチャンコに頭巾、還暦の定番アイテムを、妻の分と二揃い。夫婦めでたく還暦を祝え、ということなのだろうが、正直、これには、はっとさせられた。しかし、よく考えてみれば、あながちそれも悪いことではない。子から贈られた晴れ着を纏い、夫婦揃って還暦を祝うというのも。そんな、ただ齢を重ねたというだけのありきたり、でもそれが結構幸せなことなのだと思えるのは、一人の同期生のおかげだ。彼は、これまでも私の人生にずっと何ものかを与えてくれた。そんな彼こそ、終生の友といってもいい。
 その同期生の名は「山本 晃」、彼はまた、「カンスケ」や「カンチャン」、「コタロー」とも呼ばれていた。ニックネームが多いのは、それだけ皆から親しまれていた証といえる。現に「ユウイチ」やら「ヤンチ」、これなんかはまだ名前だが、中には、「カンボ」や「カニ」と呼ばれる同期も居る。皆、気の置けない奴ばかりだから、今も楽しい付き合いがある。

 「カンチャン」と私は入校間もない春の日に、桜舞う弓道場で出会った。当時、体育会系の校友会は全入が掟だったから、二人は何の心得もないままに弓を引き始め、以来、四年間、暑い日も寒い日も、トーチカ脇のひっそりとした道場で時を共に過ごした。我々の期は部員が4人しかいなかったから、全員がレギュラーになる。そう励ましあって稽古を続けた。正直、中だるみもあったが、とにもかくにも卒業までやり通せたのは彼のお陰だと思う。腕の方はといえば、彼の方が上だった。参段には彼が先に昇段し、部長にも彼が就いた。彼は、学生隊幕僚にも選ばれるくらい、殆どすべての点で私より出来が良かった。それでも、我々には屈託がなかった。それは、彼のホノボノとした性格のおかげだったと思う。竹内まりやと戦史を共通の趣味に、カセットをダビングし合い、週末の学生舎でこっそり徹夜のウォーゲームを戦い、休暇には古戦場なんかを歩いたりもした。三年の夏、定期訓練明けに関ヶ原を訪ねた折、立ち寄った養老公園で「ここの水は、孝行息子が汲むと酒になるというが俺はまだ、孝行が足らん。」と彼は笑いながら嘆いてみせた。実際、彼は優しい両親に、傍に も痛いほど大切にされていたから、私は彼が口にした孝行の願いは満更まんざら でもないと思った。でもこの時、そんな健気けなげ な願いを空しくする、先立つ不孝が彼にあることを思うことはできなかった。
 防大、幹候校を卒業し、違う職種と任地に進んだ我々が、次に会ったのは、5年経ってのことだった。彼は、小牧に入校した私を、官舎に呼んで奥さんのご馳走でもてなしてくれた。しかし、その彼の髪と顔は昔日のそれとはすっかり見違えるものだった。驚く私に、彼は私が察したとおりの病名を告げ、そして「もう良くなった。」と元気そうに笑って見せてくれた。「それは、良かったな。」と、私が彼に言ったのは、若さゆえに命のはかなさを思うことができなかったからなのか、それとも、自分を偽っても、ただ安心したかっただけのことなのかは分らない。しかし、それから僅か数か月後に届いた訃報こそが、その本当の結末だった。
 当時、我々はまだ駆け出しの二等空尉。仕事も人生も万事これからだと思っていた。それが、突然そうではなくなったことを、ご両親と奥さんの絞るような泣き声で私は悟った。葬儀には同期も多く詰めかけたが、誰も彼がそうならねばならない理由を見つけることはできなかった。吉田松陰は、刑場の露と消える吾身を嘆く門弟達に「どんなに短い一生にも、春と夏と秋と冬がある。」そう言って慰めたという。では、彼は本当に人生の四季を巡ることができたのだろうか。私は、凍える路上で読経を聞きながら、ただ考えあぐねるしかなかった。

 それからの私の人生には、ずっと彼が居たような気がする。「人の定めはとは理不尽なものだよ」と、心のこえが聞こえる。私は自衛官として現役であったときから、数多の同期生たちから限りない助けと得難い示唆を得て来た。そしてそれは、退官した今となっても変わらない。それでも、私は、一番多く彼の聲を聴きながら、この30年余を生きてきた気がする。死せる者は、時として命ある者より饒舌じょうぜつ だ。私は、これまで仕事にいそしみながらも、連れ合いと共に巡る季節を で、子育てをたの しみ、そして幾分かの孝行をして親を看取り、野辺に送ってきた。これらは、いずれも彼が味わう事のできなかった人生の滋味じみというものである。その都度、彼は私をうらや んだり、慰めたり、褒めも叱りもしてくれた。つまり、彼は私の人生の一つ一つの出来事の意味を気づかせてくれたのだ。

 もし、人の一生に「盛り」というものがあり、それを人生の四季にたとええるならば、夏こそがそれに相応ふさわしい。彼は、熱気に満ちた「思い上がりの夏」を知らぬまま、春のまさに酣に逝ってしまった。私は、そんな彼の羨望と叱咤を受けて、人生の夏を生きてきた気がする。そしてこれから、私は秋を迎え、やがて訪れる冬を待つことになるのだろうが、しかし今はまだ夏の余熱が残る。それが一体どれ程のものになるのか、まだ分からないが、これも私には許された人生の一部だ。それをちゃんと生きるのでなければ、彼に恥ずかしい。「彼の分まで生きる」などという大それたことはとても言えないし、また出来ることでもない。それでも、これまで彼に励まされ、今日を盛りと生きて来たから、これからもそう生きて行きたいと願っている。そして、その時にはきっと、また彼の聲を聴くことになるのだろう。

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