1. HOME>
  2. 防衛大学校第3期生会(陸)>
  3. 防衛大学校の顕彰碑について

お知らせ

防衛大学校の顕彰碑について

2022.11.22

  長江光一

 第3期生の入校後60周年文集「われら小原台っ子」編集に当たっていた同期生防大名誉教授・古賀義亮兄から、私が小原台に顕彰碑を運んできた時のことを、つい昨日の出来事のように思い出すが、その経緯を書き留めてはどうだろうか、という投稿依頼がありました。
 私は、古い昔の事を良く覚えていてくれたものだと、本当にビックリしました。
確かに、当時船岡駐屯地で第10施設群長をしていた昭和57年(1982年)に、上司の第2施設団長・三島正治陸将補(当時、故人)から顕彰碑の運搬と設置の立会を命ぜられ、小原台へ行って顕彰碑を設置するのに立会をしたことは、よく覚えております。何しろ32年も前の昔のことですが、これは引き受けるしかないなと、覚悟を決めました。

顕彰碑の現状
 現状の顕彰碑を見てみようと思い、防衛大学校を訪問し顕彰碑を訪れました。
先ず驚くと共に強い感銘を受けたのは、32年前に設置した時は整地した場所の芝の上に、ただ置いただけの記憶だったのですが、その後整備されて顕彰碑回りの施設が大変荘厳なものになっていることでした。顕彰碑そのものは、正面幅が約3.7m・高さ(地面から出ている部分)が約1.6m・奥行きが約1.7mで、重さが約25トン以上あると推定される白御影石の巨石で、前面には「顕彰」という文字が大きく彫り込まれた横130cm・縦55cmの黒御影石がはめ込まれています。裏面には、趣意書が彫り込まれた横80cm・縦60cmの黒御影石がはめ込まれ、さらに殉職者の名簿を入れるための横50cm・縦35cmの錠前付きステンレス容器がはめ込まれています。ステンレスの容器部分以外の石碑は、32年前に運んで設置したままで、見覚えがあり大変懐かしく思いました。
 その顕彰碑の周囲は横方向約7m、縦方向約4mのつつじの植え込みと縁石で取り囲まれ、両側に桜の大きな木が向かって右に2本、左に1本植えられており、さらにその外周が横・縦方向ともに約15mのつつじの植え込みで縁取られています。そして、その外側と内側の植え込みの間にある約200平方メートルの広い敷地には、インターロッキングブロック(透水性のあるコンクリートブロックの一種)が敷き詰められ、その中央に参詣用通路が整然と設けられています。それらが調和して実に厳粛な雰囲気を醸し出しており、殉職者を慰霊するのに相応しい場所となっておりました。
 顕彰碑の周囲に上述のように広場や植え込み等の施設があり、また目印にしていた防衛大学校図書館(以下図書館)や給水塔がなくなっていて、周囲の建物等の風景がすっかり変わっていました。現在は記念講堂(後出)の北側の道路を挟んだ反対側の場所になっておりますので、顕彰碑の位置は私達が最初に置いた図書館の南側から、別の場所へ移動したのではないかと思われたのです。
そこで調べてみますと、平成14年(2002年)の防衛大学校創立50周年を記念する多目的講堂(以下 記念講堂)の建築工事の一環として、当初の顕彰碑の位置で周囲施設の整備が行われ、平成13年(2001年)12月に、現在の荘厳な顕彰碑施設が完成したことが分かりました。設置してから32年という年月が経つと、われわれの記憶も風化すると同時に、周囲の状況も変わってしまうわけで、顕彰碑の建立に関わった方々の記憶が消えてしまわない内に、その由来を調べ確かなものとして書き残しておこうと、強く思うに至りました。

当時の関係者の探し出し
 船岡駐屯地に当時勤務していた仲間に聞き取り調査をするために、私が第2施設団長を勤めた時の副官であった松田正男氏に依頼して、関係者を探し出して貰いました。松田氏は地元で隊友会活動を熱心にされていることから、直ぐに当時の関係者を次々と見つけだしてくれて、聞き取りを行うことができました。当時第2施設団本部の司令業務室に勤務され、顕彰碑に関する事務の直接の担当者だった渡邊順二氏の存在が分かり、同氏が当時の事をメモの形でまとめておられました。同氏はこの顕彰碑に対して強い思い入れをお持ちで、志方俊之元陸将が防衛大幹事の頃(第2期生。昭和63年7月から平成2年3月まで在任)、上京した機会に顕彰碑を参拝し、その回りが余りにも雑草で見苦しく思われたので、草取りをして下さるよう元上司の志方幹事に訴えたことがあったと、言われているほどです。これらの聞き取りや資料を通じて、どうして東北の巨石が防衛大の顕彰碑になったか、どのように巨石を顕彰碑に加工し、防衛大まで運搬したのか等を詳しく知ることができました。

顕彰碑建立の発端
 顕彰碑建立の発端は、第4代防衛大学校長・土田国保先生(昭和53年9月から昭和62年3月まで在任、故人)と、第18代防衛大学校幹事・林 榮一郎陸将(54年8月から56年3月まで在任)との会話でした。昭和56年冬に林幹事が当時殉職した学生や卒業生の遺品が図書館三階の一室に顕彰室として展示されているのを見て、土田学校長に何とか慰霊する顕彰碑ができないものかと話されたところ、学校長も同感で昭和57年(1982年)の防衛大創立30周年記念事業に合わせて顕彰碑を建てたいと念願しているが、予算の面で実現できずにいると言われました。そこで当時、春の異動で東北方面総監への栄転が噂されていた林幹事は、東北には良い石が出るといわれているので、その噂どおりであれば顕彰碑に相応しい石を見付けて、寄贈しましょうということになりました。この話は林元総監から、直接伺ったものです。
 前述した顕彰碑の裏面にはめ込まれた黒御影石に彫ってある趣意書を読めば、当時の土田学校長や関係者の熱い思いが良く理解できます。次に記載しておきます。

防衛大学校は創設以来多くの卒業生を
おくり出してきた この間幾多の卒業生
あるいは在校生が自衛隊員としての
崇高な任務遂行中 不幸にして志なかばで
その職に殉じた
ここに防衛大学校創立三十周年を記念し
同窓会会員及び学校職員 在校生相はかり
小原台の一角にこの碑を建立し 永久に
その遺徳を顕彰するものである
昭和五十七年十一月
防衛大学校同窓会名誉会長
防衛大学校長 土田 国保
(上記は縦書きとなっているが、ここでは横書きとしました)

碑石の選定
 昭和56年(1981年)3月に、東北方面総監に栄転された林陸将は、初度視察の折に各師団長や施設団長に、顕彰碑の話しをされました。三島第2施設団長が積極的にそれに対応し、当時盛んだった地方自治体の依頼による部外土木工事や演習場整備等で、東北各地の地域情報に明るい隷下の第10施設群とか、船岡駐屯地の隊員諸氏に石を探すことを依頼し、候補となる東北各地に所在した巨石の三つを、船岡駐屯地に搬入させたということです。その5月末に土田学校長と林方面総監がそれらの巨石を視察して、三つの候補から顕彰碑の碑石になるものを選定されました。
 その三つの巨石について記しておきます。一つは、船岡駐屯地の近くの宮城県伊具郡丸森町の国有林の山裾で、地元農家が借用して桑畑にしていたところにあった石です。もう一つは、岩手県東磐井郡大東町(現在一関市)の部外土木工事現場で出た石を建設した道路の外側に移動させて置いたもの、他の一つは王城寺原演習場の中にあったもので、何れも20数トンを超える巨石でした。結局、土田学校長が選ばれたのは丸森町の石で、船岡自衛隊協力会が仙台営林署丸森森林事務所から譲り受け、それを船岡駐屯地が寄贈を受けた形で入手したものです。8月中旬になって防衛大総務部長・弘法堂 忠氏以下が船岡駐屯地を来訪され、加工要領が決定されたそうです。私はその年の8月の異動で陸幕教育訓練部教育課の学校第2班長から第10施設群長に着任したので、この初期の段階の事情は全く知りませんでした。

顕彰碑の加工
 その巨石は第10施設群第304施設器材中隊の整備工場の前に置かれ、顕彰碑にする加工が行われました。実際に加工したのは、石が採れた地元の丸森町の栗和田石材店(社長の栗和田敬一氏、故人)でした。この石材店が黒御影石に「顕彰」という文字を彫り、また同じく黒御影石に上述の「趣意書」を彫り、碑石に掘り込みを作ってそれらをはめ込んだり、殉職者名簿を格納するステンレスの容器を入れる箇所の深い掘り込みを作ったりしました。そのために従業員2人を1箇月近く毎日船岡駐屯地に行かせて、その作業をされたとのことです。この栗和田氏は船岡駐屯地に対する強力な支援者でした。
 私が第2施設団長に就任してからは、しばしばお目にかかる機会がありました。栗和田氏は、あの陰惨なインパール作戦の中で唯一救いを感じる、かの勇将の第31歩兵団長・宮崎繁三郎少将麾下の工兵隊下士官でした。爆薬や火工品類の補給が全くないので、敵軍の不発弾から抜き取った爆薬で、応用対戦車地雷を作成し、それを設置したり、道路爆破等の障害構成を行ったりして、数週間にわたる旅団の遅滞行動を支援する工兵作業に従事したとの思い出などを語っておられました。それだけに栗和田氏は、この巨石が防衛大に建立する殉職者慰霊の顕彰碑になるものとあっては他人事とは思えず石屋の営業のことは度外視して、親身になって顕彰碑の加工作業をして頂いたのだと思っています。
 この顕彰碑の前面の顕彰の文字は、防衛大創設当時の防衛庁長官・木村篤太郎先生の揮毫によるものです。しかしながら、字を頂いた時から、「顕」の字の旁が「頁」でなく「百にハの字」になっている誤字であることに気付いたそうです。当時の関係者は非常に困ったそうですが、横一本を増やして彫るわけには行かず、きっと木村篤太郎先生は、この顕彰碑を参詣する人が、事故に遭うことなく無事に百歳まで長生きすることを念願し、旁(つくり)に「百」を充てたのだろうと解釈し、そのまま彫ることにしたということです。素晴らしい解釈です。これからもそう思ってお参りすると、慰霊だけでなく大きな功徳も頂けると思います。

顕彰碑の運搬
 年が変わり、昭和57年1月末には顕彰碑加工の諸作業が終了したので、2月上旬に林方面総監が船岡駐屯地を訪れて視察され、これで良い、ということになりました。そこで三島施設団長は私に顕彰碑の防衛大への運搬と設置を命ぜられ、設置に立会するように言われたわけです。
 その時期は丁度、次年度の隊務運営計画を策定するのに余念がない頃でした。当時は我が国を取り巻く軍事情勢の激変から「対抗部隊(甲)を対象とする実戦的訓練」「防衛任務に直結する訓練」という実施上の重視事項が特に強調され始めておりました。私も陸幕教育訓練部において職種学校の検閲の主務者であり、そのことを声高に叫んでいました。群長に着任して初めて東北北部防衛の施設力を増援する任務を有する施設群の錬成訓練の計画にあたり、これらの重視事項を如何に反映するかを真剣に追求したいという強い意欲を持ち、その作成に没頭していました。
 そのため部隊が顕彰碑を運搬するのはよいとしても、私が立会のために小原台まで出向いて時間を割いてよいものかどうか、内心は戸惑いがありましたが、久し振りに母校を訪問できるのも願ってもないよい話しとも思いました。当時の心境を本文を書きながら思い出しました。三島施設団長の命を受けて、私は第304施設器材中隊にこの顕彰碑の運搬を、重材料運搬訓練の一環として行うように命じました。
 顕彰碑に加工した石は、何しろ安定の良くない25トンを超える巨石ですから、当時施設器材中隊に2両だけ装備していた大型セミトレーラ連結車(28トンに積み、低床式、車幅3.3m)で運搬することとし、それに誘導車の小型トラック(1/4トン)、諸器材等を運搬する中型トラック(3/4トン)各1台による車両3台と、選り抜きの指揮者・操縦手・整備員等の7名をもって輸送隊を編成しました。
大型セミトレーラ連結車は、車両制限令による車両幅等の最大限度を超える特殊車両ですから、一般道路の運行には道路法の規定により道路管理者の許可が必要です。その許可条件は夜9時から朝6時までの間の夜間運行であったために朝霞駐屯地を経由して2夜かけて行くことにしました。さらに都心を越えて運行することになる朝霞駐屯地から小原台までの経路は東部方面警務隊に誘導して貰うことにしました。何しろ運ぶものが顕彰碑ですから、絶対に事故があってはならないわけです。指揮者の斉藤宣郎准尉(当時)やトラクター操縦手の小野正男二曹(当時)達は非常に緊張し、事前に経路等の偵察を行い、選定経路を走行して道順や道路の状況を把握、また卸下設置の現場も入念に確認したと言っています。
 船岡駐屯地での顕彰碑のセミトレーラへの積載は、20トン・トラッククレーン2台の同時吊上げで行い、当て材等の設置による安定やチェーンブロックによる固定には十分注意し、顕彰や趣意書のはめ込み石の損傷防止も兼ねて、石碑全体をシートで覆う等、積荷の安全には細心の注意を払いました。なお、防衛大における石碑の卸下設置には第1施設団の第3施設群第301施設器材中隊から、トラッククレーン2台の支援を得ることにしました。ちなみに、この第3施設群の主力は、在日アメリカ陸軍司令部のあるキャンプ座間の一角に日米共同使用により昭和45年に開設された朝霞駐屯地の座間分屯地に所在して来ましたが、この中隊だけは朝霞駐屯地にいました。
 このように安全管理には万全を期して、輸送隊は2月17日夜9時頃に船岡駐屯地を出発し、朝霞駐屯地で翌日昼間に休息して再び夜中に出発し、防衛大に19日(金)の早朝無事に着きました。私は輸送隊の出発を確認したのち在来線の列車で上京し(東北新幹線の開業この年の6月23日で、この時は未だ使用できなかった)、輸送隊到着の当日9時頃に防衛大へ着きました。石材店の栗和田社長と司令業務室の渡辺順二氏は、前夜は走水莊に泊まったそうで、すでに到着しておられました。

顕彰碑の設置
 設置位置は旧図書館の前で、道路に近いところに芝を張った場所が準備されていましたので、第1施設団から支援を受けた2台のトラッククレーンによって、10時頃からセミトレーラからの卸下を開始し、正午頃までには所定場所に設置することができました。顕彰碑を卸下した輸送隊は、夜まで防衛大で休息し、当夜は朝霞駐屯地まで運行して一泊、さらに次の日はまた夜間を待って出発し、21日早朝に船岡駐屯地に無事帰りました。輸送隊の方々は、4夜を連続して運行したので相当疲れたと言っていました。
 顕彰碑を無事設置した19日の夜、防衛大走水莊で弘法堂総務部長の招宴があり、私と栗和田氏・渡邊氏が招かれて慰労して頂いた思い出があります。今でも記憶に残っているのは、出席された防衛大関係者の方から「第10施設群から来られた隊員の皆さんは、顕彰碑の設置作業が終わってから、箒をトラックから出してきて、設置場所の周囲や道路上を掃き清めて帰られた。なかなかできることではないので、感心しました」との賞賛の言葉を頂いたことです。私はすっかり嬉しくなって、「第10施設群は、第551建設大隊として昭和27年に九州は大村駐屯地で編成され、29年に愛知県の豊川駐屯地に移駐して第103建設大隊となり、さらに35年に船岡駐屯地に移駐しました。49年3月には岩手駐屯地の第309地区施設隊を隷下に加え、第10施設群に改編された部隊です。九州人の勇敢な気質と東北人の粘り強い実直な気質が混じり合った技術を大切にする精強な部隊です」と胸を張って申したことを、古い話なのになぜか思いだいました。

顕彰碑のさらなる経緯
 私達が直接関与した顕彰碑に関わる話しはここまでですが、現在までの顕彰碑のさらなる経緯を記録として遺しておくために、同窓会誌「小原台だより」等の資料や今回取材した内容をもとに、いくつかの事項を紹介しておきます。
設置された顕彰碑の事務上の手続としては、元防衛大幹事・林東北方面総監から防衛大学校同窓会へ寄贈され、それを同窓会が防衛大創立30周年記念として建立し、防衛大学校へ寄贈したとされています。実際にも石材店への謝礼として、それなりの金額が同窓会から支出されております。因みに当時の同窓会会長は1期生の田村秀昭氏(平成元年から19年まで参議院議員3期、故人)でした。
運搬した年の昭和57年(1982年)11月14日に、除幕式が行われました。その時は59柱の殉職者名簿が、顕彰碑裏面にはめ込まれた鍵付きステンレス容器(私達が顕彰碑を設置した後に、同窓会によって設置されたと思われる)の中に奉納されました。
 それから平成15年までは同窓会行事として、それ以降は学校行事として、毎年11月の開校記念祭に合わせて、顕彰碑前で殉職者慰霊祭が「顕彰献花式」という名称で執り行われております。特に、平成14年(2002年)11月16日の防衛大50周年行事では、87柱の全御遺族に同窓会から案内状を送り、28家族53名の御遺族関係者の参加を得て、前年末に整備された顕彰碑施設で、厳粛に行われました。50周年記念特集の「小原台だより」(平成15年1月1日、Vol.10)に掲載されている記事によれば、「新設された記念講堂北側道路沿いにある顕彰碑周りの式場は、同窓生の手によって綺麗に掃き清められ、学生儀仗隊の見守る中で同窓会会長、学校長『慰霊の辞』等の弔辞後、白菊を献花し故人を慰霊し偲んだ」とあります。また、卒業43年目に当たる卒業生を卒業式に招くホーム・カミング・デー(平成12年から始まる制度)母校を訪問される卒業生の皆様も参詣されているようです。
 顕彰碑に関連する施設として、平成17年(2005年)3月に完成した防衛大学校資料館(以下資料館)の二階に、同じ時期に整備された資料館顕彰室(以下顕彰室)があります。これは創立50周年記念行事の一環として同窓会が寄贈したもので、横20cm、縦12cmの黒御影石の銘板300枚を正面に据え、左右に顕彰室説明板および顕彰データ索引装置等が設置されています。銘板1枚1枚に殉職者の氏名・生年月日・出身地・期別・陸海空の別・専攻科目・殉職日とその概要等が彫り込まれています。平成26年(2014年)6月現在で92柱になります。なお、隣の部屋の控室に収納棚があり、殉職者の遺品はそこに収納されています。
 顕彰碑と顕彰室は、一体のものとして考えるべきでしょう。個人の墓地で多く見られるものに先祖代々の墓の石碑があり、その横に墓誌があって、それに故人の名前・戒名・逝去年月日・行年が彫られています。これに譬えて言えば顕彰碑が墓の石塔で、顕彰室が墓誌に相当するものです。顕彰碑では個々の殉職者を心に思い浮かべてその御霊にお参りするわけですが、祀られている方の名前を拝することはできません。顕彰室では個々の殉職者のお名前と関連事項を親しく拝することができるわけです。
防衛大学校は平成24年(2012年)に、創立60周年を迎えました。その記念事業の最大の柱は、建学の碑エリアの整備であったとのことです。この建学の碑ができたこともあり、母校を久方ぶりに再訪された卒業生の訪問ルートとして、高嶋 巌副校長(企画・管理担当)は次のように述べておられます。
 「まず、『建学の碑』に立ち寄り、学生歌に思いをいたし、次に学生綱領をなぞって精神の拠点に立ち返っていただく。次に資料館の『槇記念室』にて、槇学校長による教育理念を振り返るとともに防大の歩みをたどっていただく。そして記念講堂脇の『顕彰の碑』において殉職した同窓生の遺徳をたたえ鎮魂する。それから学生舎などで現在の防大生を確認し、教育訓練、学生舎生活、校友会活動に励む後輩達を激励などしていただければと思っております」(「小原台だより」、平成24年1月1日、Vol.19 8頁の記事より抜粋)。
これには顕彰室の名称が言及されていませんが、付け加えるならば、上述しましたように「顕彰碑」と「顕彰室」は一体のものですから、資料館で「槇記念室」を見学したらその足で二階に上がって「顕彰室」を礼拝された後に、「顕彰碑」をお参りして頂きたいと思います。

あとがきとして
 以上、東北宮城の地、阿武隈川下流の丸森町で採れた巨石が、約400Kmも遠く離れた小原台に顕彰碑として鎮座し、母校の殉職者の御霊をお護りしていることの由来をまとめて書きました。そこからこの顕彰碑には、上述した趣意書にある防衛大関係者の思い以外にも、碑石の採取・加工・運搬等に関係した多くの東北人と九州人の誠意が籠っていることを理解して頂けたと思います。
また、私個人について言えば、そういう場面にたまたま遭遇し、日常の隊務の一環として行った些細な行為が、長年経ってみれば、母校の卒業生にとって「建学の碑」・「槇記念室」と並んで三大施設の一つに意義付けられる、この「顕彰碑」に繋がる大きな役割を果たしました。そのような幸運に恵まれたことに感謝するととともに、無上の光栄と思っています。
 顕彰碑に眠る勇者の御霊に対し、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

 なお顕彰碑に関しては防衛大副校長・香月 智 (陸第23期、研究科第21期)から、2011年11月11日に、この同一サイトに「われら小原台っ子と顕彰碑に関する最近のエピソード」と題した記事が寄せられているので参照していただきたい。

前の記事  次の記事