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お知らせ

「同期生紹介」(6)(空)山本征路君~「狩猟」と「有害鳥獣の駆除」~

2022.11.06

(空)山本征路君(機械工学専攻、第5大隊、山岳部)は、退官後は北斗会 東海・北陸支部 事務局長として20年以上も歴代支部長を支え、支部会員の親睦に努めておられますので、支部会員は勿論のこと他の支部役員は良くご存知のことと思います。 山本君は永年「狩猟」を趣味として親しんでこられましたが、趣味の域を超えて「有害鳥獣」の駆除という面で大いに活躍し、地域社会に貢献しておられます。伊藤君から投稿がありましたので紹介します。

        ~山本征路君のこと~ (北斗会理事長 伊藤文夫)

山本征路君は熊本県出身、機械工学専攻、校友会は山岳部です。現役時代は航空機整備職域一筋に活躍し、退官後は岐阜県各務原市に在住し、現在は「各務原市猟友会副会長」を勤めておられます。 山本君は幼少の頃から自然豊かな故郷熊本で育ち、ご尊父などの影響から「狩猟」に興味を懐き、現役時代も転勤の度に地元の猟友会仲間と「狩猟」を楽しみ、加えて「狩猟」を通じて地域社会に貢献し、山岳部で培った気力・体力で80歳を過ぎた今日まで現役並で山野を駆け巡っておられます。 山本君に「同期生紹介」に取り上げることを提案したときに、「カガミノの里山とイノシシ」と題した手記を寄せてくれました。「狩猟」と「有害鳥獣」の駆除について山本君の想いが述べられていると考え紹介することとします。

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      「各務野の里山とイノシシ」    山本 征路

はじめに

大自然の懐につつまれて、何の拘束も無く自由奔放に生きてゆくことを若い頃からずっと憧れ続けてきた結果、狩猟をやることを選択して56年になるが、憧れた夢はどれ一つとして未だ達成できていない。定年退官後、ずっと描き続けてきた夢を実現する第1歩としてまず各務原市に家を構えた。ここは市街地北側になだらかな里山が連なり木曽川が生んだ扇状台地、昔から「各務野」と呼ばれていた里山であり自然遺産が多く残されている。終の棲家として選択した訳ではなく衝動的にこの地を選び、全財産と可能な限りの借金をつぎ込んで建築した我が家であったが、妻と二人だけの地鎮祭は、この地が人生最後の住み家になるかと思うと神主さんの祝詞を聞きながら、訳も無くついポロリと涙が出て来た。

多くの同期が退官後素晴らしい活躍をして居られ、我を振り返ると「役立たず!」と恥ずかしい限りだが、普通には体験できない私の経験を語り、一服の清涼剤になれば幸いと思い筆をとった。

1.狩りで過ごした日々・・狩猟三昧

現役時代脳ミソを鍛えたことは加齢とともに徐々に消滅し、定年後どこかへ忘れてきてしまったようだが、体で覚えたことはいつまでも身についている。

1狩猟への憧れ

ア.猟欲のめばえ

私が狩猟への興味を持ち始めたのはまだ小学校へ入学する前ではなかったかと思う。父と一緒に伯父の家へ屡々行っていたが、そこは広大な丘陵のみかん生産農家で、伯父は大変な道楽者だったらしい。屋敷で何頭も猟犬セッターを飼い、猟専用の馬も居た。座敷へ放置してあった空気銃を持ち出して仲が良かった従兄弟とみかん山で小鳥を追いかけまわして遊んでいたものである。将来は一緒に猟をしようと約束していたが、若くして突然病死し、それもできなくなってしまった。しかし、私の猟はこのような環境で育まれたと思う。

イ.狩猟免許の取得

法の定めにより18歳にならないと銃を所持して狩猟はできない。待ちに待った年齢となったが、防大山岳部で鬼のような監督にしごかれて雪まみれになってもがいていた。やっと社会人となって最初の赴任地が宮崎であった。宮崎は絶好の狩猟環境にあったため、早速狩猟免許を取得、銃を所持して一生の趣味とすることを決めた。24歳になった年であった。当時、狩猟解禁日は11月1日であったが、狩猟解禁日までに休日には近くの野山をできるだけ歩きまわり、猟の服装や道具を買い揃え、猟友会長のところへ焼酎瓶をぶら下げて挨拶に行った。

ウ.狩猟解禁

待ちに待った狩猟解禁日となった。毎年狩猟解禁日は待ち遠しく、解禁日前日は早々と床にはついたもののなかなか寝付かれずわくわくしたものである。解禁日は夜が明ける前に宿舎を飛び出して銃を担いで野山を一人で歩きまわった。一日中歩き廻ってもなかなか獲物との出会いはなく、たまたま出会いがあっても、慣れない銃を構えて弾を込めている間には既に獲物は射程外へ飛び去って行くのを見送るのみであった。夕日が沈む頃、帰路でたまたま出会った猟友会の方が声をかけてくれて「今日はお祝いの日だから」と自宅に招かれ、獲物の鴨鍋をご馳走になった。奥様手料理の鴨鍋が美味く満腹になった帰路の夜道で、星空を眺めつつ長年の夢であった猟が実現したこと、全く獲物が獲れなかったことの口惜しさで涙がポロポロと出てきた初心者ハンターの若い時代であった。

エ..狩り人生の五目猟

宮崎で始まった私の猟は、狩猟の原点でもある。単独猟で始まった私の猟は次々に新鮮な出会いがあった。狩猟を続けているうちに、何人もの猟友ができた。地元の古い猟師から網猟、わな猟を教えてもらい、免許も取得した。網猟で豪快なのは「突き網猟」である。皇族がご猟場でカモ猟をやるあの方法である。ため池に面した小高い山があり、夕刻になるとその鞍部をカモの群がすれすれに飛んで池に入る。長い竹竿の先に逆三角形にした丈夫な網を取り付け、カモの群に向かって放り上げるのである。あたりが薄暗くなると、カモがシユン、シュン、シュンと金属音のような羽音を立てて頭上を通り過ぎて行くが、その音が猟を終えてもいつまでも耳について離れないほど夢中になれた。

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経験を積むに従って次第に猟果も増え、捕獲する鳥獣の種類も多くなり、更に猟場も広くなってきた。そして、毎年短い猟期はあっという間に終猟となった。転居する度にその地で狩猟を楽しみ、岐阜、愛知、山梨、北海道、静岡、鳥取、山口、福岡、宮崎等々、全国各地でいろいろな狩猟を経験、長く交流を続けている全国各地の猟友も多くなり、どこの地でも沢山の思い出が積み重なった。

(2)ヤマドリ猟

ヤマドリは馴染みがないかもしれないが、人里離れた山に生息する日本固有の狩猟鳥である。ポインター、甲斐犬などを使ってヤマドリやキジ猟をしていた。特に浜松で飼ったポインターは母親が英国チャンピオン犬で頭の良い猟犬であった。

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浜松市に転居すると早速地元の猟師二人の仲間に入れてもらった。両名共素晴らしいポインターを持っており、猟では絶対的な信頼性があって広い田畑では全速力で見える範囲を狩り廻る。藪の中に入ると、我々の動きに合わせて離れたところへ回り込み我々が狩り進む方向へ捜索、鳥が飛び立つと我々の方へ向かって飛んで来て、絶好の射撃チャンスとなる。ポイントすると、周囲を確認して射撃位置につくまで動かず、声を掛けると一気に飛び込んでフラッシュさせてくれた。当然猟果は次第に多くなり、休日は早朝から終日全員が定数になるまで次々に猟場を移動して狩ってまわり、どの沢に入っても必ず何羽かのヤマドリとの出会いがあった。

1980年春、猟期が終わった直後、思い出がいっぱい詰まった浜松を後にして、急遽家族4人とポインター一頭を連れて宮崎へ転居することになった。浜松と別れるときは猟友達が車を何台も連ねて神戸のフェリー乗り場まで見送りに来てくれ、船が離岸するときには何本もの五色のテープをなびかせながら別れを惜しんだ。

(3)猟場の余禄

宮崎の夏は暑い、猛暑を避けてしばしば「尾前」と云うところへ行った。椎葉村の更に山奥で、峠を越えるとすぐ熊本県境である。10軒ほどの部落内で2軒を除いて全部同姓の「尾前さん」である。猟期以外はよくその部落の渓流でヤマメ釣りを楽しんだが、やがて大きな古民家の主と気が合って親しくなった。夏は涼しく、蚊も居ない。私の強引な勧めで民宿を始めるようになった。聞けばここ数年、このあたりへ猟師も来ないというので、独占猟場であった。30分ほど坂道を上ると、広い高原のように開けたゆるやかな斜面があり、一面にカヤが密生している。秋に刈り取られて何か所にも積み上げ乾燥させていた。まるで宮崎地方の民謡「ひえつき節」か「刈り干し切り唄」に出てくるような山間部ののんびりした風景を想わせて、とてもお気に入りの場所となった。

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椎葉村尾前では春先にヤマメの放流を手伝いに行き清流の奥に隠しヤマメの釣り場を作っていたり、宮崎県主催のヤマメ釣り大会で優勝して県知事からトロフィーをいただいたり、部落の古民家民宿「清流荘」で知り合った山口県在住で有名な尺八の先生から、甲斐犬を譲ってもらったことなど思い出を綴る話の種は尽きない。

(4)大物猟

シカ、イノシシ、クマ等の猟を総称して「大物猟」と猟師は云う。大物猟は宮崎のベテラン猟師から習ったのが始まりで、岐阜で雪中の猟、わな猟もやるようになった。宮崎でちょっとした繋がりから知り合った猟友の一人は油津港を拠点として外洋にも出る漁船のオーナーでもあり、港へ漁師小屋を建てそこを遊び場の拠点にしていた。もう一人はやり手土建業で面倒見の良い友人であった。熊のような容貌で名前が熊男と云うので、クマちゃんと呼んでいたが、残念なことに私が宮崎を離れて間もなく、若くして脳溢血で倒れ他界した。彼は生前、私の将来の住み家として眺望の良い場所を宅地になるよう造成していてくれていたことを通夜の席で初めて知ったが、ずっと彼が元気で居たら私の終の棲家も人生も今と違っていただろうとクマちゃんを思い出す度に思う。

ここでの猟はブルーチック・クーハウンド3頭、かなり大型で30~40キロ位あっただろうか。漁師小屋で飼育したが、私になついて私の指示を良く聞くようになった。この猟犬の特徴は足が遅いが臭覚は素晴らしく、確実に獲物が逃走した跡をトレースし、山が割れるような大きな声で吠えながら何時間もシシを追跡し、時には猟場の山を二周も三周もすることがあった。山や谷の地形、森や林等の様相からシシはここを通ると判断され、見通しが良く安全な場所に待ち場所を決め、耳を澄ませて待機していると、獲物を追って吠えてくる猟犬が次第に近くなってくる。今に目の前に大きなシシが出て来るのではないかと想像して心臓が破れそうにドキドキした。見事予想が的中し、1発でシシを倒した時は猟をやっていて良かったとつくづく思った。各地での大物猟の様子など、まだまだ話は尽きないが、岐阜での雪中猟の映像を添付したので、一コマを想像戴くことにしたい。

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(5)鳥獣供養と祭り

猟師にとって鳥獣霊供養祭と山の神に捧げる感謝祭は欠かせない。宮崎県の西部、熊本県との県境に米良村があり、更にその奥に銀鏡(しろみ)という部落がある。そこは山の奥まった場所に神社があり、1489年に設立さたと云われる銀鏡神楽が語り継がれている。祭り当日は神社へ通じる参道へ松明が並んで夜通し灯され、周りに奉納された何頭ものイノシシの頭で飾られている能舞台で、夜通し神楽を舞うのである。銀鏡神楽の詳細は省くが、そこで記念すべき歴史的な出来事に出会った。

1986年12月26日にNHKがBS本格放送を開始し、その記念番組として大晦日に夜を徹して銀鏡の神楽を全国初放映したのである。地元銀鏡出身の猟友と、我々もシシ頭を銀鏡神社へ奉献しようということになったが、その年に限って大晦日前日になっても一頭のシシも捕れていなかった。しかし、幸いなことに大晦日、その年最後の日になって神様のご利益か大きなシシを射止めることができ、捕獲したキジと共にシシ頭を奉献することができ、能舞台正面へ供えられた。

そのようなことが縁となって、民俗学者で写真家の須藤功氏と知り合い、銀鏡で彼の著書「山の標的」(未来社)を戴いた。A5 版で、紙質もわら半紙のような質素な本で、400頁にも満たない著書である。しかし、20年もの調査をして纏められた中身の濃い著書で猟友へ一読を薦め貸していたが、いつの間にか散逸紛失してしまった。古本があれば購入しようと捜したがもう高価で手が出ない。岐阜の図書館を捜したが、なぜか地元各務原市の図書館の蔵書となっているのみの貴重な図書となってしまっている。ちなみに、この著書は国立国会図書館の蔵書ともなっている。また、後日、須藤功氏は航空自衛隊OBと聞いた。

(5)トロフィー

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捕獲した鳥獣を食べるのも猟師の特権だが、ヤマドリは、はく製にし、記念品やお祝い等として知人へ差し上げた。ある時、ヤマドリ猟をしていると、幸運にも立派な角の牡シカを捕獲した。角が左右対称で大きさもめったにお目にかからない大きなものであったので、猟期が終わった後刀掛けを作成しようと考え、頭部の皮、肉等を取り除き土中へ埋めておいた。こうしておくと頭骨と角は腐らず立派なトロフィーとなる。廃材と手持ちの材料などを利用して約半年かけて刀掛けを製作した。台は朱色のウルシを塗り、頭骨は金箔、角は磨き仕上げとし、2本のボルトを頭部へ埋め込んで台へ固定した。重い空気銃を掛けることもできる丈夫で立派な刀掛けとなった。

エゾシカは大型で豪快だが、ホンシュウシカはこじんまりし精悍で美しい。居合道を極めた友人へお祝いとして贈呈したが、今も友人宅の床の間に飾ってある。

2.有害捕獲

2006年各務原市の要請を受け、猟友会は有害イノシシの捕獲を実施することになった。現在の法令上の用語は「被害防止捕獲」という表現に改正されたが、当時は有害捕獲と称していた。2000年頃までには各務原市内には殆どイノシシが出没している形跡はなかったが、次第に各務野の里山で農業被害が拡大し、箱わな(檻)を仕掛けて捕獲に踏み切ることになった。当初は自費と行事を削減して捻出した猟友会予算を充当し、猟友会員が経営する自動車整備工場で捕獲檻を製作したが、毎年捕獲実績を積み上げるに従って徐々に僅かな助成を受けることができるようになり、現在は20基のわなを年間通して市内へ設置・運用している。捕獲数は毎年増加し、2018年(平成30年)には1年間で87頭捕獲した。その年の夏は連日35℃を超す猛暑であったが、真夏の8月、1ヶ月間に32頭を捕獲した。約10年間に500頭以上捕獲したのである。市の中心部に岐阜飛行場があり、周辺に密集した住宅、団地が密集する市内でこれほど多くのイノシシが各務野の里山に生息しているとは市民をはじめ、殆どの人は想像もしてないと思う。

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十数年続けて実施してきた捕獲の間には、豪雨の最中に対処したこと、捕獲されるのは一頭とは限らず、多いときには7頭も一度に捕獲したり、親子全部同時に捕獲したりしたこともある。時には、檻をイノシシに壊されたこと、檻が倒木で壊されたこと、目の前でイノシシが檻へ入り捕獲されたこと、錯誤捕獲で野鳥(キジ、ハト、フクロウ、小鳥等)野犬、ネコ、タヌキ、キツネ、飼い犬等がかかったこと、檻に入ったイノシシが檻の中で暴れて数メートル檻を移動されていたこと、檻の中でUターンできない程巨大なイノシシを捕獲したこと等いろいろなことがあったが、大きな事故もなく成果を上げてきたことは猟友会として自負できることであった。唯一事故に逢ったのは、珍しい巨大な真っ白のイノシシが捕獲されたときのことである。檻に近づき、写真を撮影したまでは良かったが、イノシシが檻の中で激しく暴れて扉へ衝突する度に檻全体が浮き上がり、更に横倒しになりそうになっている。対処しようと檻へ近づいた時、檻の中のイノシシが一層激しく扉へ突進した。2度目の突進のとき、遂に目の前で頑丈な檻の扉が一気に破損し、飛び出して来たイノシシはそのままの勢いで私に覆いかぶさるように飛びかかって来た。その距離は約2m、咄嗟に防御の姿勢をとる暇も無くその場で数メートル跳ね飛ばされた。イノシシは私を跳ね飛ばした後山中へ逃走したのは幸いであったが、私は気が付くと丈夫な長くつの片方をまるでナイフで切り裂かれたように破られ、ふくらはぎに浅い傷、臀部に深さ3センチほどの刺し傷を負ったが、他にどこも痛めて無く、軽傷だったことは幸運だった。

数多くのイノシシを捕獲した2018年の夏であったが、捕獲したイノシシが何となく異常であることに気が付いた。後日原因が判明したが、豚熱(CFS)の感染である。豚熱の急速な蔓延は狩猟、イノシシの駆除等狩猟行政に大きな問題が提起された転機となり、また、豚熱によりイノシシが山中で死亡し一時的に捕獲数が減少した。狩猟をはじめ、狩猟行政にかかわることが大幅に改正され、豚熱は収束の兆候も見え始めたが、被害、捕獲数も再び増加傾向が現れ始めている。

3.緊急出動 ・・ 防災・事故防止対処

猟友会では行政機関から要請があった場合は猟師でしか実施できないこと、例えば、猟銃で捕殺するしか方法がない事態、には協力して出動し対処している。クマ、イノシシ、シカ、カモシカ、サル等の目撃情報、遭遇等年間を通じて緊急に対処の要請がある。そのすべてを紹介することは紙面の都合でできないが、どのようなことがあったかほんの一部を要約して紹介してみよう。

(1) 巨大イノシシの処理

市へ大きなイノシシが道路脇で死んでいるとの情報が通行人から通報があり、市の担当職員が現場でトラックへ回収した。焼却処理のため、施設へ搬入したが、巨大過ぎて焼却施設入り口へ入らないとのことで処理支援の要請があった。現場に到着すると、覆いで被せられたトラック周辺は異様な悪臭である。回収したイノシシは今まで見たこともないような巨大さで、トラックの荷台いっぱいの大きさ、死後相当な日にちが経って腐敗し始めていた。何等かの理由により道路脇で倒れてそのまま死亡したものと推定される。焼却施設入口へ入る大きさに切断してほしいとのことであったが、腐敗し始めたものをきれいに切断するのは難しい。猟友会員の農地へユンボを運び込み埋設する穴を深く掘り、消石灰を撒いて埋設した。各務原市内の里山でこのような巨大なイノシシが生息しているとは想像もしていなかったが、改めて生息している証拠を突き付けられた思いであった。

() イノシシが車と衝突

2014年10月5日午前、至急銃を持って直ちに出動するよう突然の緊急連絡があった。急いで猟装を整え、銃と装弾を準備して車に乗った。車中で警察と連絡をとり現場を確認すると、我が家から 10分程の里山裾である。イノシシは無傷で、現場の道路は危害防止のため封鎖したとのことであったが、現場へ着くと、パトカーが1台止まっている。私は急いて車を止めて降りると、道路上に大きなイノシシ成獣が居て対処している警察官を追い回している。一旦銃で射殺しようと銃の覆いを外そうとしたが、公道上で銃を発射するのも一瞬躊躇った。これ以上応援を待つ暇はないと判断し、ナイフを持ってイノシシに近づくとイノシシは山へ向かって逃走しようと走り出した。そこで、私は道路から山側の逃走方向へ割って入ると山へ入ろうとしたイノシシが向きを変えた。そのときである。イノシシは前足を側溝に踏み外し、上体が溝にはまりかけた。絶好のチャンスである。足で首筋を踏み付けて倒し、止め刺すことができた。捕獲したイノシシを解体すると車との衝突で股関節を骨折していたが、それでも道路上を走り回っていた。生命力の強さには驚くばかりである。

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() 飼育イノシシが脱走・・・緊急対処の顛末

平成25年(2013 年)3月8日岐阜市内で飼育されていたイノシシが物音に驚いて囲いを破って市街地へ逃走した。このイノシシは鉄工場を経営するおじいさんが飼育していたが、前年おじいさんが他界し、奥さんが女手一人で後を継いで飼育していた。女手では手に負えなくなり、飼育していた3頭を処分しようとしたが、そのうち1頭は牡の成獣で牙も大きく、狂暴で引き取り手もなかったようであった。逃走している様子がTVニュースで放映され、危険を知らせる警告が防災無線放送で流された。体長約2m、100キロほどのイノシシとのことで、警察、岐阜市の猟友会員が緊急対処したが、捕獲することができず、岐阜市と各務原市にまたがる山中へ逃走して追跡が困難になってしまった。イノシシが逃げ込んだ里山は周囲が岐阜、各務原両市の住宅に囲まれ、標高345m、南部は落葉樹林、北部は茂った雑木林で覆われている。山中には登山道、遊歩道が縦横に整備され、平日もハイキングに訪れる人も多い。

各務原市猟友会員が緊急に呼び出されて逃走した経路を追って捜索することになった。全員慌ただしく準備してそのまま捜索活動を開始したために飲み水も携行していない状態である。尾根まで登ると、上空をヘリコプターがしつこく旋回している。山中を分散してイノシシの通った形跡があるところを辿ったが、やがて僅かな手がかりも無くなった。大汗をかきながら尾根までたどり着いたが、どこにも逃走した形跡はない。分散して再度山裾まで捜索し、朝の集合場所で今後の対策を検討しようということになった。険しい山中を下り、集合場所へ辿り着くと、そこに大勢の警察官、市の職員らしい人が待ち受けていた。どこかで見覚えがあるような男の人が話しかけてきた。全員が集合するまでの間雑談していると、その方は TV のキャスターだった。取材だとは毛頭考えてなく、変な姿が放映されるのではないかとちょっと気になったが、その日の夕、ゴールデンタイムのニュース特別番組で報道されて、予期もしてなったことが起こった。午後4時遅い昼飯を済ませて帰宅しようとすると、自宅への道路が通行止め、山火事が発生しヘリが消火にあたっている。漸く帰宅すると北海道の猟友から電話があり、「ニュースで私が出たのを見た!」とのこと、全国各地の知人、猟友、同窓等から次々に電話があり、私は TV を見ることができなかったが、顔がアップされて山中での捜索状況等話をしていたとのことで、改めてマスコミの影響のすごさを認識させられた。

翌日から連日の捜索、作戦打ち合わせ等夜がしらじらと明けるまで続いたが、これといった手がかりは無く、やがて登山道へは注意書きを無視してハイキングをしている人も見かけはじめた。猟友会員の中には、もう死亡しているのではないかとの憶測も出てき始めたが、私は、イノシシは草や根、落ち葉でも食って山中に潜んでいると信じていた。

3月11日(月)恐れていたことが遂に現実となった。午後4時半ごろ下山中のハイカー男性(72 歳)がイノシシに襲われて負傷したのである。イノシシは確実に生きていた! 翌日、出動できる限りの会員を集めて山を巻き狩りすることにした。しかし、にわかに集めた巻き狩りのグループでは何の成果も得られず、徒労に終わった。その後も連日の捜索、パトロールは続き、その年の猟期最終日3月15日(終猟日)を迎えてその年の猟は棒に振ってしまった。何とかピンポイントにイノシシが潜む場所を特定する必要があると考え、山中のフィールドマーク(足跡・食痕)を探すため、終猟翌日、予て一緒に巻き狩りしている猟師仲間に応援を頼み山へ入った。この時期は渇水期で地面はカラカラ、谷も全く水気はない。イノシシは草や木の根を喰ってでも生きているが、水を飲まないと急速に衰弱してしまう。人を襲った元気なイノシシはどこかで水分をとっているに違いない。そう思った私は、猟友、猟犬と共に何本も空谷を下り山裾まで水場を探すことにした。すると、岩の隙間にほんのコップ一杯程度の水溜まりがある場所を発見した。周囲を良く観察して「おや?」と思った。1枚の落葉の表面が濡れている。時刻は10時過ぎ、夜半水飲みに来た動物の仕業と推測すれば、表面が乾燥してないことも納得できる。私の動きを察して同行の友人は周辺を入念に見て回り、明確ではないがイノシシがガレ場を山頂へ向かって登っていると推測される崩れた急斜面を発見した。猟犬も盛んに風上へ向かって鼻を高く上げて匂いを嗅いでいる。昨夜水を飲みに来たイノシシは山頂直下8合目付近、シダが生えた叢に潜んでいると推測した。可能性は高い。猟であれば更に追跡して猟犬の引き綱を放して狩るところであるが、直ちに捜索を中断、急いで下山し、予て何度も打ち合わせた緊急連絡網を通じて報告、早急に巻き狩りをするよう進言した。その結果、直ちに翌日大規模な巻き狩りを実施することが決定され、態勢が整えられた。

17日(日)、猟師の朝は早い。夜明けと共に準備を整えて家を出た。集合場所へ到着すると、既に大勢の関係者が集まってきていた。共同で巻き狩りをする岐阜市と各務原市の猟友会員、市の職員、警察官等大変な大所帯である。地図を広げながら入念な打ち合わせをし、全体の指揮を県猟友会長がとり、各務原市猟友会は私が指揮することになった。また、猟友が連れて来た猟犬を使うことにした。この猟犬はいつも私達のグループが巻き狩り時に使っており、極めて信頼性が高い。全員集合後、打ち合わせ及び安全確認等を行い、夫々の持ち場へと散会した。警察は10台ほどのパトカーが出動して山裾道路を封鎖し警戒を開始した。住宅街の防災放送で外出禁止の注意が流れているのを聞きつつ登山道を急いだ。私は指揮するグループの隊員を引き連れて、それぞれの持ち場で注意事項などの念を押しながら配置して廻った。比較的見通しが良い小高いところへ陣取ると、眼下には谷が広がり、その谷を越えた正面の尾根が見える。その尾根の反対側が昨日イノシシの潜んでいると判断した場所である。配置完了を無線で報告、ほどなく全員の配置完了の連絡を受領した。岐阜市の猟友会員を率いる友人は、勢子、猟犬と共に山頂直下の登山道から山裾へ狩り進む手筈になっている。「猟を開始」の連絡を受け、いよいよ狩りが開始された。猟犬に取り付けられたマーカーの発信音が受信機に入り始めた。私は、前方の視界の安全を確認して銃のカバーを外し、3発弾を装填した。狩りが開始され、静寂な時間が過ぎた。ただ、聞こえるのは、イヤホンから、「ハッ、ハッ」と猟犬の荒い息遣いと「ザザ―」と草木が摺れる音のみがキャッチできる。突然無線機へ「ウォン、ウォン」と猟犬の鳴き声が入り始め、すぐに勢子から「起こしたぞ!」と無線連絡が入った。猟犬がイノシシを認知して追い出し始めたのである。待ちの射手が一層緊張する瞬間である。今に目の前にイノシシの姿が現れるのではないかと銃を構え、安全がかかっているかを確認し、目を皿のようにして前方を監視した。10分程時間が過ぎただろうか、突然「バーン」一発山中に銃声が響き、暫く静寂な時間が過ぎた。勢子から「イノシシ確認」「弾は外れた!谷へ向かっているぞ!」と無線が入った。かすかに猟犬が追跡している吠え声が直接聞こえ始めた。無線に吠え声が入った後 1、2、3・・と数えると約5秒後に直接の吠え声が聞こえる。私から約1500mの距離と推定される。「谷の待ちは注意しろ!良く獲物を確認して撃て!」と待ちの射手へ注意を促した後結構長い時間が過ぎた気がしたとき、「パーン」と1発山裾で銃声、続けて更に2発目が響いた。暫くして、「倒したぞ!」と射手から報告が入って来た。そこで私はホットして一旦緊張が解けたが、「待ちの者はまだ持ち場を離れるな、逃げたシシとは限らん!」と皆へ油断しないよう注意を喚起した。暫くして勢子から猟犬を回収したとの連絡が入り、総指揮官から「狩りを終了する」との指示が流された。斃れたイノシシの現場へ通じる登山道では走っている何人もの警察官とすれ違ったが、現場へ到着すると、イノシシは息絶え絶えでまだ生きていた。そこでナイフを取り出し急所を刺し安楽死させた。集合場所へ終結すると、皆満足した笑顔で「ご苦労さん」とあいさつを交わし、遂に仕留めることができた目的達成を喜び合った。

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今回の逃走イノシシ捕獲は10日に及ぶ大作戦であったが、多くの教訓を残して、最終的に想定した計画どおりに大作戦が事故無く成功し、終結できた。また、作戦成功の喜びの裏には、長年にわたる狩猟三昧で経験して得たすべてが集大成された結果と深くかかわって繋がったことが至上の満足感を満たしてくれた。

後日、地域防災に貢献したことで、警察署長から感謝状が贈呈された。

年齢といろいろな制約を乗り越えて、各務野の里山を眺めながらの狩猟三昧はまだまだ続く。春夏秋冬、各務野の里山は美しい。そろそろ伊吹山頂も初冠雪を迎える季節となってきた。 ー  完 ー

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