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防大逍遥歌の作詩作曲

2014.12.01

逍遥歌が生まれた頃の思い出     塩瀬 進(陸・航空16班)

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やり場のない焦燥感と鬱積したエネルギーを発散させるため、野球部の練習に励みすぎ、

授業中も自習時間中も殆ど夢の中で過ごし、落第ギリギリの超低空飛行を続けていた3年生の

ある日、校友会新聞「小原台」を開いたら、逍遥歌の応募歌詞入選発表の記事が目に泊まった。

学生による逍遥歌をつくるため、次は作曲を募集する趣旨の説明があり、入選作が紹介されていた。

逍遥歌には本来あまり興味のある方ではなかったが、作詞者が同期の小長谷君であることに

興味を覚え、第1節から読み始めた。1度さっと読み流したが、再度行を追って読み進むうちに、何ともいえない感動を覚えたのである。

2度3度と読んでいるうちに、自然に頭の中で旋律のついた歌になっていた。

今でも不思議に思うのだが、苦労して曲をつけたという記憶が全くないのである。

小長谷君が書いたあの素晴らしい詩は、書かれた時に既にその行間にあの逍遥歌の旋律を持っていたに違いない。

そしてたまたま私の感覚が彼の琴線に触れて共鳴し、それを書き留めたに過ぎないのではないかと思えてならない。

これはまた、混沌とした時代に先駆けて小原台で起居を共にした若者のみが感受することができた魂の叫びであったのかも知れない。そして、更に不思議なことに、年を経るにつれ、自分が作曲者であるという意識や、自負が次第に私から遠のいで行き、あの逍遥歌は、小原台上でいつの頃からか、誰かが歌いはじめた如く、自然発生的に生まれた歌であったようなほのかな追憶に変わってしまったのである。

小長谷君とは、教務班も訓練班も違っていたので、その頃は親交がなかったが、彼の素晴らしい文学的才気には、大変感心したものである。

当時の防衛大には文化系の専攻学科はまだなく、1年生の時の一般教養としての人文科学科が唯一の文科系学科であったが、学生歌「海青しーー」を作詞した1期生の田崎氏をはじめ、当代一流の文学的才能を発揮された方が他にも多数おられ、これが防衛大の文化活動の水準の高さを示すものである。

その日の夜、例のごとく自習時間に飽きた私は、小原台の逍遥歌入選作を読み返していたが、昼間の旋律はまだ頭の中に残っていた。単純なメロディーなので、作曲募集に応募するような自信は無かったが、何となくノートに五線紙を引き書きとめていたのが、後日大変な結果になったのである。

そんなことがあってから約1ヶ月が経ち、私は逍遥歌のことはすっかり忘れ、相変わらず野球の練習と居眠りの日々を過ごしていた。

ある日、自習時間が終わり、日夕点呼の少し前だったと記憶しているが、突然同期生の岩田君が部屋に来て「「君は、逍遥歌の作曲をしたと言っているが、作曲募集の締切が明日なので、応募したらどうか。応募者が思ったより少ないので校友会で今手分けして集めているのだが」と言うのである。それではということで、机の中を探したが見当たらない。消灯時間になって漸く見つけ出し、もう一度読み返してみたが、単純なメロディーなので、とても人前に出せる代物ではない。そこで、もう1曲別の旋律をつけたものを急いで準備し、岩田君に渡した。当時、校友会会長は、3期生の百瀬氏であり、岩田君は、交友会事務局で総務を担当していたと記憶している。

岩田君が、なぜ私のノートのメモのことを知ったのか、多分同じ訓練班だったので、私が何かの時に喋ったのであろう。そんなことがあってから2~3日の後、同じ中隊のブラスバンド部であった3期生の則松氏が目を丸くして私の部屋に来て、「おい!君はあの逍遥歌を本当に自分で作曲したのか?」と言われたのである。何か悪いことでもしたのかと思い、「はい、私が自分で書いたものですが、何か?」と言いかけると、「いやー驚いたな。おめでとう。君の曲が入選したよ。しかも2曲ともだ。」校友会では、ブラスバンド部を中心にした選考委員会を作り、作曲者の氏名を伏せて、全員で選んだ結果、最後に2曲が残り、それがいずれも私の提出したものだったと興奮気味に言われたのである。

そして、その2曲のうち最終的に選ばれたのが、何と先にメモしていた単純な方の旋律だったのである。

今折に触れ思い出すのは、あの偉大な槙校長の教えと小長谷君の素晴らしい詩を生んだ原野の名残りのある広々とした小原台の風景、そして岩田君や選考委員会の方々のご尽力、そして40数年の間歌い続けて下さっている防大同窓生皆さんの小原台精神であります。

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